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1)国会において結成された議員連盟「道州制を実現する会」!
今回は、皆様に現在わたくしたち国会議員が一部で本格的に議論し始めている「道州制」についてお話しようと思います。道州制とは簡単にいえば、今の都道府県を廃止、全国を北海道、東北州、関東州といったように10程度の広域ブロックに再編、現在中央が集権的に行っているさまざまな国の権限を可能な限り地方に移管し、道州の課税権限を強化するとともに、今の国家歳出の多くを占めている公共事業を行う権限等は原則として道州に帰属させるという政策構想であります。
道州制を実現するということには、国=中央政府の役割をスリム化し、また、今や数が膨大に増え過ぎて非効率・非合理行政の象徴ともなっている市町村を、道州制の枠組みに合わせて新たに再編していくという政策的意義も含まれております。
現在、わたくしたち自由民主党では、元大蔵大臣の三塚博さんを会長として「道州制を実現する会」という議員連盟が結成されており、このたびの人事でわたくしは、同連盟の幹事長代理として会務運営の一端を担わされることとなりました。
この会では、関係機関等を交えながら頻繁に勉強会を開催しておりますが、いまは今後の事務の進め方やスケジュール等について詳細を詰めているところであります。わたくしも、つい先日、「道州制を実現していくうえで発生し得る具体的な作業」というテーマで同会において発表を行ったばかりであります。
21世紀に向かってこの国の政治経済社会を再構築していくうえで、思い切った地方分権とそれによる行政効率化を図り得る道州制の実現は、政治家として何としても実現しなければならない重要課題であると確信しております。以下、道州制の具体的な論点について皆さんとともに、考えて参りたいと思います。
2)地方自治体の財政自主権を確保することこそ道州制の目的である!
道州制はなぜ必要かといいますと、それは、中央集権かつ中央依存になっているわが国行財政の非効率性を根本的に改革するためであります。わたくしは市議会、県議会時代から、何かひとつの公共事業を行う際も、なぜ国、県、市の負担がこうも複雑に絡んでいるのかと感じていました。例えば、身近な公共下水道などでは、事業主体は市町村ですが事業全体の2/3を国の補助対象とし、その内1/2の額が国の補助金として支出されています。道路など多くの公共事業も同様です。つまり、ひとつの自治体がひとつの責任をもって事業を行うというようになっていない。結果、中央からのいろいろな補助金が入り組んで、現在、国と地方の財政というのは極めてわかりにくい構造になってしまっております。
人というのは概して、わかりにくい仕組みのものからはドンドン離れていくものであります。わが国の税制に一番顕著ですが、たくさんの控除措置等が絡み合って複雑になり過ぎ、訳がわかりません。いまや日本の税制体系はつぎはぎで欠陥だらけといっても過言ではなく、わたくしは大蔵委員会理事として引き続き税制の簡素化を訴えていきたいと考えております。
さて、少々話が飛んでしまいましたが、国家財政と地方財政の関係も税制に劣らず誠に複雑怪奇であります。端的にいって日本の税金は、国に入るものが全体の7割、地方に入るのが3割であります。一方、国が遣うのは全体の3割、地方で支出するのが7割という具合に、入りと出で完全な逆転現象になっているのが実態であります。
ここで、「地方で7割遣うのであれば初めから地方に税収が入るように制度全体を変えれば良いのではないか」と誰もが感じることでありましょう。当然です。しかし、現実にはそうなっていないのであります。一回国に入ることで、富裕な自治体から貧しい自治体にきちんとお金が再配分されるようになっているのであります。これがいわゆる地方交付税交付金制度であります。
例えば東京都や千葉県、神奈川県などは比較的たくさん税収が入ってきますが、一回国で徴収した後、例えば税収の少ない鳥取県などの地方に再分配されていくため、都市部では、入った額より少ない金額のお金しか使っていないのであります。国=中央政府が間に入り地方交付税制度で地方間の財政のバランスをとっているというのであります。
わが国が、いくら均衡ある国土造りを目指しているといっても、これでは余りにも片寄り過ぎていると思われます。税収のない地方部に税収のある都市部からお金を回すというのですが、そもそも都市部というのは人がたくさん住んでいて道路も混雑し電車のラッシュもひどいものでありますから、当然それだけお金がかかるはずなのであります。地方には都市部ほどのお金はかかりません。むしろ、地方に無駄な投資をするよりは、東京都知事の石原慎太郎氏がいうように、首都圏全域に思い切ってインフラ投資をする方がはるかに経済全体を活性化させ、国民的利益にかなうものといえます。
つまり、一回、国に税金の大半を徴収したうえで国の裁量で地方に都市部のお金をもっていくという現在の地方交付税制度は、行財政を極めて不透明なものにしており好ましくなく、むしろ、都道府県などという枠組みをはずし、例えば、九州なら九州地方という地域をブロック化、その中で各自治体の財政のバランスをとる(お金持ちの福岡県から鹿児島県への収入移転)こととし、地域政策についての権限も新ブロック=道州に多くを委譲してしまう方が透明であります。合わせて、市町村数も対応能力強化のために今の3,229から1,000くらい、中長期では300くらいまで削減していくことが望ましいといえます。
こうすれば、各地域が独自の財源とコスト意識に基づいて独自性のある街づくりを推進できることとなるのです。九州というひとつの地域の中でどのような財政バランスをとるかは九州の人々の自由であります。
地方分権一括法という法律が通りましたが、都市計画法等一部の国の権限が地方に移転されただけであって、実際にはあまり変わっておりません。これは、前述のような地方財源と交付税制度の全体像についての議論がないからであります。
繰り返しになりますが、原則としてはその地域で支出される政策経費はその地域で賄われる方が透明性がありわかりやすく、国民に説得性があるといえます。当然、離島等かなり地方になればきつくなるでしょうが、道州制によって地方区分を大括りにすることで大半の問題は解決できるはずであります。
仮に道州域で賄えないような巨大事業であれば、本当にその地域にそういう需要があるのかを再考すべきでありましょう。それがコスト意識というものであります。ただし、当面は制度移行の経過措置として、JR各社で行われているように、ある程度の地域バランスを採ることは検討しても良いと思います。
3)道州制実現によりスリムな国づくりが実現可能!
道州制実現によって一番変わってくるのは何より国=中央政府の役割であります。道州制が単に今の都道府県の合併であれば意味がありません。思い切って地域政策のグランドデザインを地方にまかせて、国は、外交、防衛、司法等本当に国家全体として必要な政策、調整業務に特化することで、思い切った国のスリム化が実現できるのであります。
国会議員になりますと本当に驚くのですが、特に衆議院議員の場合、財政、防衛、建設、文教などなど膨大な政策領域について国会議員の参画が求められておりますが、必ずしもすべてについて十分な審議が行われているとはいえません。各政策分野の内容が細かくなり過ぎて、なかなか突っ込めないというのが現実であります。裏を返せばこれは、本来地方で決めても良いことまで、国会議員がいくつもの委員会を兼務して審議しているということになるのであります。
ですから、道州制を実現することで地方分権を一層推進し、国の役割といったものを限定的にしていく必要があります。中には、「今まで国でやっていた事業を何でも各道州などというものに移譲してしまっては不安だ」という方もいるかもしれません。しかし、地域に何が必要なのかという問題はその地域が一番わかっているものであります。あとはその道州という枠組みの中で収支を考慮しコスト意識というものをもって、道州政府と地域住民が共同で街づくりを行っていけば良いのであります。つまり、高い負担で高福祉が良いのか、低い負担で低福祉が良いのかは、各地域が自律的に決定すれば良いのであります。
また、道州政府はこれまでの都道府県よりはるかに大きな権限を持つわけですから、今まで中央官庁や大企業にいっていたような優秀な人材等も多く集まるはずであり、一部の方々が心配されるような行政の対応能力の問題も解決できるはずとわたくしは考えます。
とにもかくにも道州制というものは、中央政府の肥大化と中央依存の地方の体質を改善するという意味から、わが国の基本構造を変革していくうえで避けて通れない国家的課題なのであります。
4)道州制を実現していくために必要な検討課題………
以上のような問題意識にたって、さあそれでは具体的に道州制を実現していこうということになりますと、実に多くの法律を改正しなければならないことは間違いありません。先ほどもお話しました地方分権一括法の場合で475本の法律に手を加えることになりました。わが国には現在約1,600本ほどの法律がありますが、仮に道州制を制度化するとなりますと、全法律の6〜7割の法律の改正が必要になると考えられます。
また、これだけの法改正を伴う国の基本構造を変革する大きな議論でありますから、当然それなりの年月がかかることが想定されます。地方分権推進関連法の際で議論から法制定まで5年近くの月日を要しており、道州制の実現の場合は、それを優に上回ることになるでありましょう。
具体的な手続きとしましては、まず、われわれ「道州制を実現する会」の活動が本格化してくると、それを受けて党執行部から政府へ検討の要望が出されます。そうしますと、諸官庁の自治省、来年1月からの総務省では、地方制度調査会等審議会で数年かけて議論されます。そしてこの答申に基づいて政府原案が作成され、内閣に提出された後、閣議決定、衆参委員会、衆参本会議を経て立法化されるわけであります。これは内閣提出法案として処理する場合ですが、当然議員立法も有り得ます。
また、広く国民の意見を聞くため、国会に現在の憲法調査会や国会移転の特別委員会のような特別の専門委員会や調査会を作って議論するということも十分な検討課題として挙げられるところであります。
そして、この道州制導入に関しては憲法改正が必要になるという意見もあります。これは憲法第92条の地方自治の本旨という部分でいう地方自治というのが都道府県と市町村を指しているため、これを改変するためには憲法改正が必要であるというのであります。わたくしは、道州制をきちんと憲法に明確化しておくという意味から、憲法改正議論のひとつの論点として道州制を取り上げても良いと考えております。
こうして見ただけでも予想される作業は実に膨大であります。道州に移行した場合の具体的な業務内容と都道府県職員の再配置に関する検討等、今後詰めなければならないことはたくさんあります。しかし、わたくしは冒頭で申し上げたような問題意識に立ち、21世紀の国づくりの基本ともなるべきこの道州制の実現に向け、引き続き、さまざまな検討事項を細密に詰め、何としても国民に納得いただける案を作成し、一日も早く皆様にお目にかけたいと思っております。
○わが国首相は靖国神社に公式参拝すべきである!
1)そもそもわが国における靖国神社問題とは何か?
今月は8月、終戦記念日の月ということで、靖国神社参拝問題を取り上げてみたいと思います。この件につきましては、つい先日も第25回平成目安塾において、講師に元内閣委員長・前参議院議員の板垣正先生をお招きし遺族会や傷痍軍人会の皆様ご列席の下、靖国神社問題について講演・勉強会を行ったばかりであります。
靖国神社問題とは、わが国の首相や閣僚が毎年靖国神社に参拝する際に、同神社には、東条英機ほか戦犯もまつられているため、戦前・戦中、わが国の侵略を受けた諸外国が、「軍国主義賛美に繋がる」とメディア等を通じて一斉に警戒し、結局、毎年、わが国首相は諸外国に配慮するという理由から参拝をせず、一部の閣僚が参拝するなどして中国等が遺憾コメントを繰り返すという皮肉的にいえば夏の恒例行事であります。
そして、この際、一部のわが国の報道機関や野党政治家は、「この国の政治家はこんなこともあんなこともしています、中国や韓国さんいいんですか?」と、反日感情を煽るような報道を世界中に流すことによって、諸外国が過剰反応するといういわば悪循環に陥るケースが多いことも指摘できるでありましょう。
靖国神社への公式参拝は戦後ある時期までの間何の問題もなく、行われておりました。A級戦犯がどうのこうのという部分的問題ではなく、わが国のために犠牲になって死んでいった人々に対して、現在の国家の指導者が畏敬的心情から毎年参拝するというのは別段問題があるとは思われません。米国だってケネディも眠るアーリントン墓地へ花をあげにいきますし、諸外国でも戦死者・戦没者の祀られている場所に公職者が訪れることは推奨されことすれ、禁止されるものではありません。
ところが、わが国の場合は別なのです。なぜか毎年中国や韓国政府が騒ぐと日本の指導者たちは萎縮し、参拝そのものを止めてしまうのであります。わたくしなら、先の大戦でお亡くなりになられた戦争犠牲者に申し訳なくてそんなことはできません。仮にわたくしが首相であれば、毎年真っ先に公式参拝します。
2)わが国首相の公式参拝は何も間違っていない!
この点、石原慎太郎東京都知事は相変わらず立派でありました。彼は「これは公式参拝ですか?」と聞いてきたマンネリのテレビのインタビューに対してこう言ってのけたのであります。「英霊を悼む気持ちに公式も私的もあるか!そんな質問自体意味をもたない。わたしは都知事石原として参拝するのだ」と。石原首相待望論が強いのもわかります。彼のやることは常に一貫している。一方、森総理といえば、「諸外国の国民感情に配慮し公式参拝も私的参拝もしない」とのコメントを出しました。
そもそも普通に出来ていたはずの参拝を公式参拝、私的参拝などといって政治問題化させたのは三木総理からであるといわれております。このため天皇陛下も参拝できなくなりました。このようなことを繰り返し、わが国の歴史認識について他国からの指示によってわが国の政府責任者が戦死者・戦没者に対して畏敬の念すら表明できないというのでは国家としての威信に関わる問題であり、侮辱以外の何物でもありません。そして、少年犯罪の凶悪化や自殺の増加等今日のわが国の姿をみれば、戦後の自虐史観がどれほどの悪影響を与えたかは明らかです。公共心や思いやりという言葉は死語となりました。
わたくしは靖国神社への公式参拝は間違ってないと思いますし、それを軍国主義賛美であるなどと難癖をつけて来る国の態度こそ改めるきべであると思っております。この点、数年前、唐家
旋外務大臣に会った際、「そもそもわが国には死者の罪は問わないという死生観をもっている。したがって戦争で亡くなった方々すべてに国家として畏敬の念を捧げることは当然であり、貴国の毎年の反応については大変遺憾である」と、はっきりと言ったことがあります。唐家
旋氏はわたくしの発言に対して、「随分はっきりとモノを言う方である、そういった意見があることは受け止めておきたい」と一定の理解を示してくれました。
周辺諸国の感情を大切にすることは外交の基本ですが、国家としての筋というものは通さなければ逆に国際世論から軽んぜられ、国の威信を保つことはできません。わが国政府責任者には毎年こうした無様な対応を繰り返すことなく、21世紀を前に毅然とした対応をとっていただきたいと切に願うものであります。
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