桜田 よしたか
自由民主党
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元気だそう日本! 桜田義孝の日本国改造私案
第一部 二十一世紀目指すべきこの国の「かたち」と「こころ」
第二章 憲法改正に躊躇してはいけない! ――わたしの憲法改造論
1 この国のかたちをつくる憲法改正は喫緊の課題である!

この国の具体的な「かたち」と「こころ」を議論する最初に、やはり「憲法改正問題」を取り上げなければなりません。はじめに申し上げておけば、わたくしは、憲法改正論者であります。先の選挙でもこのことは、明確に述べてきたつもりです。

ただし、現在は「外務大臣政務官」いう内閣を構成する立場であり、政府の人間でありますから当然公務員ということで、日本国憲法の遵守義務というものが発生します(憲法第九十九条)。ですから、政府としては憲法を守っていかなければならないわけで、こうした立場として憲法議論をするつもりはありません。

しかし、同時にわたくしは、わが国の衆議院議員でもあるわけで、これから申し上げることの一切は、わたくしの「国会議員としての一貫した見解・考え方」であるということをご理解いただきたいと思います。

憲法改正というと、戦後、決まって右翼的だとか、国家主義的だとか、何を考えているのだとか言われてきました。しかし、こうした現行憲法への執着こそ異常であり、偏執狂的ですらあります。一体世界で、憲法というものを一切変えない国がどこにあるというのでしょう。

憲法とは国の土台です。基本的人権や国会、行政、裁判所といった国の仕組み、地方自治の仕組み等、国の「かたち」と「こころ」を作り上げるものであります。ITだなんだと五十年前とは全く違う様相を呈しているわが国の現状に照らして、憲法だけが時代を越えて普遍的でなければならないという理由は全くありません。

こうしてみると、何かわたくしが憲法を何が何でも変えたがっているようにみられると思いますが、そのとおりです。わたくしは何としても憲法を改正したいと思っているのです。それには以下のような理由があるからです。

2 いまや意味不明になった憲法九条は即刻改正すべし!

  ―― 集団的自衛権の行使を可能にすることは必ずや国益にかなう

「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久に放棄する。

 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」

 これが戦後最悪の悪文、憲法第九条であります。この文章は今や何をも意味してはおりません。だって、おかしいではないですか。陸海空軍はあるじゃないですか。自衛隊は誰がどうみても軍隊ではないですか。戦車やミサイルや潜水艦を保有している組織が軍隊ではなくて一体何でしょうか。単なる乗り物だとでもいうのでしょうか?こういうところに日本人特有の、いい加減さがあります。言葉でごまかそうというのであります。ある意味で、これは犯罪に近いものがあります。

 わたくしが言いたいことは、ただひとつ。現実を見よ、ということであります。そこに危機があるのです。北朝鮮だって、今は南北融和などといっていますが、独裁体制国家であることに何ら変わりはありません。拉致問題も解決していません。中国だって軍事予算を増大させており、内部での民族紛争もたくさんあるのです。

人間社会において、先行きの人間関係がどうなるか、われわれにわからないのと同じように、国際社会の荒波の中で、先行きどこの国とどういう関係になるとかということは、なかなかみえないものなのです。国際関係が絶えず不確実の中にあるということは、世界の常識です。

そうした中で、国の、国民の生命と財産の安全と安心を考えた場合、もっといえば国の安全保障の問題を真剣に考えた場合に、必要最低限の武力というものは不可欠です。

民主党の水島広子さんという女性議員は、テレビ朝日のサンデープロジェクトという番組の中で、「非武装中立」ということをさかんに言っていました。評論家の田原総一郎氏がその中で「攻めてこられたりしたらどうするの」と聞くと、彼女は「仕様がありません」と言っていました。

彼女だけが異常なわけではありません。正確に言うと、憲法九条を死守しようとする多くの人々が、多かれ少なかれ彼女と同じ論理をもっているのです。政治家の中にこんな考え方をする人がいるとは、何とも情けなく恐ろしいことです。同番組ではみんな笑っていましたが、笑い事ではありません。戦後のあいまいな憲法解釈の歴史というものが、憲法改正問題に関する政治家のいい加減な態度というものが、こういう人物を作り出してしまったのです。

難しく考えることはありません。国民生活の安全を守るために最低限の武力は必要であるということを、しっかりと憲法に明記すべきなのです。例えば、次のように直したらどうでしょうか?

(憲法第九条私案)

@わが国はかけがえのない国際平和の価値を最大限尊重して、国際平和実現のため諸外国と協力し努力を惜しまないで活動する。

Aそのためかつてのような戦争を自ら引き起こすことをしない。

Bしかしながら、わが国の国民と平和と安全を守るため必要な武力については、引き続きこれを保持できる。

 自分で文章の自慢をするわけではありませんが、現行憲法九条より、よほどわかりやすいと思います。

あいまいな文章というのは、一見いろいろ解釈ができて都合が良いように思われますが、良いようにも悪いようにも解釈されてしまうという意味で大変問題です。これでは肝心なときに賛成派と反対派が激しい争いをしてしまい、その場での行動の指針とはなりえません。

やはり根本的なところでは、国民の大多数がイメージを持って合意できるように、しっかりと明確にしておかないと国というものが前に進まないのです。国としての尊厳がなくなります。憲法九条のあいまいさを巡る問題は、その悪い例の最たるものだと思います。わが国の安全保障政策の価値というものを、今こそ政治家が勇気をもって固める必要があるのです。

ここで、前述九条私案でも明確にしてあります「集団的自衛権の行使」についても触れておきたいと思います。現行憲法では集団的自衛権の行使を認めておりません。ですから、わが国はどんな国際的暴虐に対しても同盟国と共同で軍を編成できない。湾岸戦争や東ティモール紛争にも自衛隊派遣ができないわけです。

そもそもわたくしは自衛という概念は孤立したものではないと思っています。自国の安全を守るためには決して孤立してはならず、同盟国との緊密な関係構築が大前提になり、自衛力に乏しいわが国の場合もそういう状況下におかれております。

したがって、同盟国の理解を得て、わが国の安全を確保するためには、米国のような同盟国とできるだけ共同歩調をとれるようなかたちに憲法を改正するのは当然です。先のガイドライン関連法も米国からすれば大変失礼な話です。あれはできるけれど、これはできないとか、「一体誰がお前の国の周辺を守っていると思っているのか」と米国民の怒鳴り声が飛んできそうです。わが国の場合は有事というものに対する法律が驚くほど硬直的な状態となっているため、いざという時に国民の生命を守れるか本当に心配です。あって欲しくないということと、実際あり得ないということは別なのですから。

わたくしはこのような国際情勢の現実を踏まえた場合、集団的自衛権の行使を認め、国際的にも世界から信頼される国家を目指して、必要な法改正を行うべきであると確信致しております。

例えば、世界平和に貢献するという意味から、国連安全保障理事会等で明確に人道上非難を浴びるような国家の暴虐に対しては、断固たる意思をもって、必要に応じて国際平和維持活動軍へ参加できるようなかたちにすべく、踏み込んで検討していくべきであります。憲法を改正し、集団的自衛権の行使を認めることはわが国国民の利益に必ずやかなうものと確信致しております。

3 解釈であいまいになっている基本的人権を意味あるものに!

 憲法改正というと必ず第九条をめぐる論議が多いわけですが、現行憲法の抱える問題はなにも第九条だけではありません。例えば、プライバシー権や環境権など、現在の基本的人権が充分にカバーできていない分野も多く出てきました。

現状では、多発するさまざまな新しい権利について、第13条の幸福追求権等の条文を無理やり拡大解釈して乗り切っているだけであります。ですから、最高裁判所の判例などをみても、何とも説得力のない判決内容になってしまいます。現実社会に合わせて、もっともっと具体的な内容の条文が望まれるところであります。

現行憲法では、裁判にかけられる犯罪者の権利は充分カバーできても、激増する犯罪被害者・家族の救済については、あまり触れられてはいません。はたからみていると、何かこの国は「犯罪奨励国」であるかのような錯覚を抱く時もあります。真に救済すべき人権は、犯罪者の人権などではなく、運命的にも悲劇に出会ってしまった被害者の人権なのであります。

マスメディアによる人権被害も深刻です。ある調査では、日本人が考える人権侵害主体のトップは、意外にもマスメディアだというのであります。幼い我が子が殺されたばかりの親に非情にもマイクを突きつけ、「どういう心境ですか」と、これはないと思います。誰もそんなものは見たくはありません。見たい人がいたら反省すべきです。

報道の自由という権利を逆手にとった権利の濫用ということも目立っています。権利というものは公共の福祉に従わなければなりません。いくら報道の自由といっても何人にも人を殺す権利がないように、人のプライバシーや平穏に過ごせる権利を侵害することは許されません。こうしたことも現行憲法の基本的人権の解釈だけでは、不十分かつ力不足であり、もっと社会の変化に適応するよう、抜本的に見直す必要があります。

4 議院内閣制度の限界と首相公選制度の導入について

 憲法問題を取り扱うこの章の最後の項で、わたくしは日本政治の根幹的問題について指摘したいと思います。つまり首相をどう選ぶべきかということであり、これはイコール憲法統治機構論の改正問題となります。

 今の憲法では、内閣総理大臣は国会議員の中から互選で、つまり議会の中での多数決で決めております。内閣総理大臣は議会の多数派の支持を得ていますから、安定した政治基盤のうえで、しっかりと国務に専念できるというメリットが理論的には成立します。しかし、現実にはどうでしょうか?

 森首相がクリントン前大統領に会ったとき、こう言われたそうであります。「あなたは、わたしが大統領になってから会った7人目の首相だ」。これは、あきれを通り越して、もはや悲劇的とすら言わざるを得ません。一方ではセクハラ事件があってさえ、経済活性化を十分な時間の中で実現できた米国の大統領がおり、一方ではころころ人が変わってばかり、リーダーシップをとれない国の弱弱しい首相がいる。これでは国力に差がつくのは当然です。

 簡単に言いましょう。日本の内閣総理大臣は、もっと長くやらせるべきです。大臣も同様であります。町内会長を持ち回りでやっているのとわけが違います。最低でも四〜五年変えるべきではありません。1〜2年で一体何ができるのでしょうか?内閣の基本政策は実行に至るまで優に一年はかかります。政策の評価までに二〜三年とすれば、それだけで最低四年は必要です。

 諸外国の例をみてみましょう。例えば、ドイツ統一を成し遂げたコール元首相の在任期間は16年であります。イギリスのサッチャー元首相は11年6ヶ月、ブレア首相だってもう4年やっています。アジアでも韓国の金大中大統領や中国の朱容基首相が既に3年やっているのです。

主要国の中で、こんなバカげた内閣総理大臣の安売りセールをやっているのはわが日本国だけであります。わたくしは外務大臣政務官としても恥ずかしくて世界に顔向けできません。内閣総理大臣を一度決めたら、4〜5年は続けられる仕組みを作る必要があります。

そのため、議会の恣意的な思惑だけで行政の長がどうにでもなるような議院内閣制には、多くの問題があることが明らかになったと思います。内閣総理大臣がころころ変わるから、結局官僚がなんでもやってしまうことになるのです。この議院内閣制をどうにかしなければなりません。

また、首相自身もあまりにも国民の意思と大きくかけ離れた人物が就任し続けることも大きな問題であります。いま、メディアの世論調査では、国民の九割が内閣総理大臣に、やめてもらいたいと言っております。一国にとってこれは大変不幸なことです。

マスメディアのマイナス報道も大きく影響していますが、どうせなら、やはり国民が待望するような人間が総理になるに越したことはないでありましょう。例えば都知事の石原慎太郎さんのようなリーダーシップの取り方は大変理想的であります。わたくしは正直申し上げますと、できることになら石原慎太郎さんのような人に内閣総理大臣になってもらいたいと思います。彼の力で東京都は目にみえて変わっています。平成13年度の東京都の予算もみましたが、ビジョンというものが実にしっかりしている。自分の言葉で喋っている。

ここでいささか脱線しますが、最近石原さんについて感心したことの例を挙げましょう。あるテレビのインタビューで、カメラが石原さんを左から撮ろうとしたら、彼はすかさず「いやいや君、俺のことは右から撮ってくれないか」というのであります。自分のメディアアピールについてカメラ位置まで考えて行動する。これこそマスメディア情報の氾濫する中での政治リーダーのあり方だと思います。

マスメディアとケンカしても始まりません。よく新聞記者と対立し、本気でけんかする政治家がおりますが、マスメディア、特にTVカメラの後ろには何千万人という国民がいるのだということをしっかりと意識して、政治に対して信頼を得られるような責任ある付き合い方をすべきなのであります。そういう意味で、石原さんのリーダーとしてのあり方は理想的であります。

では石原さんのような政治家を、どうやったら内閣総理大臣にすることができるのか?それには、首相公選制の導入しかありません。大統領的内閣総理大臣の登場しかありません。議会の互選の中からはなかなかこういう人物は生まれてきにくい。むしろ国民に直接選ばせるべきであります。

石原さんの自信は、都民の莫大な票を背景とするものであって、これこそが彼の政治的リーダーシップの源泉であります。一度首長にしたら4〜5年はしっかりとやらせる。だめなら次の選挙で落とせばよい。良ければ続けてやらせるが、三選は禁止する、とやり方は考えればいくらでもあるのです。要は面倒だから考えないだけ、思考停止なだけであります。これが果たして政治と呼べるでしょうか?

首相公選制を議論する中で、わたくしは、ある人からこう言われました。「桜田さん、あなたは民主主義を誤解している。民主主義とは国民に直接、何でも決めさせれば良いというものではない。国民は、それだけの政策知識や判断力を持たないし、自分の利益のこと以外は基本的に考えない。だから、国民がその代理として選んでいる国会議員が職業政治家として、国民の意見を、うまくまとめ上げ判断していく余地があるのだ。ましてや一国の総理を国民に選ばせるとしたら、それこそ長島監督や木村拓哉が総理大臣になってしまうではないか?わが国の採用している民主主義とは直接民主主義ではなく、間接民主主義なのだよ」と。

しかし、これは正しい理解といえるでしょうか?国民が総理大臣を選べないとすると、衆議院議員や参議院議員はなぜ選べるのでしょうか?知事はなぜ直接選べるのでしょうか?憲法改正についてなぜ国民投票という制度があるのでしょうか?

わたくしはそもそも重大なことだからこそ、敢えて国民に直接選ばせるべきではないかと思うのであります。米国の大統領選挙を巡る動きをみていても、つくづくそう思いました。フロリダでの再集計等いろいろ紆余曲折はありましたが、米国では国民が自分達のリーダーを選ぶことについて実に強い関心をもっており、それが政治の威厳というものを作っている。これはすばらしいことだと思います。

わたくしは若い頃、ケネディなど歴代米国大統領の演説を研究したことがあります。どの大統領もアメリカンドリームを自分の言葉で語っている。極めてわかりやすい。彼らの言葉は、わが国の首相のように、大蔵省出向の秘書官らが書いたものを棒読みするのとは明らかに違う、民主主義の担い手としての荘重な響きをもっています。

翻って、わが国の総理大臣の言葉には、そうした民主主義の担い手としての言葉の響きがありません。感動もしません。思い切って言いますが、政治家の仕事は国民を感動させることであります。今のように軽蔑されることでは決してありません。そもそも国民から政治が軽蔑されている国にろくな国があった試しはありません。

いろいろ申しましたが、わたくしはこの首相公選こそ、日本政治再生の鍵であると確信致します。今こそわが国の首相を、政治リーダーを米国のように直接投票で選ばせるべきであります。国民はそんなに変な判断をしないとわたくしは思っています。国民を信頼しています。なぜならわたくしこそが国民から信頼されて今回も議席を確保できたからであります。国民の選択眼を軽視するということは、国会の権威そのものを軽視するということにも繋がるのであります。国民は充分な教育を受け、政治リーダーを選ぶだけの知識と経験をもっております。直接公選を是非実現しようではありませんか。そして、そのためには現行の憲法を改正する必要があるのです。

憲法改正に関して、第9条の問題、基本的人権の問題、首相公選の問題と、いくつかの代表的な論点についてわたくし自身の考えを述べてきました。わたくしのもっている現行憲法観と、改正へ向けた意気込みを、少しでもご理解いただきたいと思います。

憲法改正は、21世紀の国の「かたち」と「こころ」を考えるうえで避けて通れません。わたくしは皆さんと手を取り合って、引き続きこの問題に真正面から取り組んでいきたいと思っています。応援して下さい!


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