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| 元気だそう日本! 桜田義孝の日本国改造私案 |
| 第二部 日本政治の舞台裏 ―― 日本政治の現状と桜田義孝の政治哲学 |
| 第二章 行政官僚制度の実態と今後について ――桜田義孝の官僚国家改造論 |
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1 細かくなり過ぎる政策知識と行政国家化の必然性
現代社会というのは、良くも悪くもさまざまなものが整ってきました。学校制度、年金制度、道路、裁判所。実にわれわれの生活はさまざまなものに取り囲まれることとなり、法律や制度が網目のように浸透しています。こういう現代社会の特徴は時として「行政国家」と呼ばれることがあります。
昔の社会は、こんなにきめ細かくはありませんでした。民主主義発祥の地、イギリスでも、十八世紀くらいまでは、国はできるだけ市場原理にまかせ、外交とか防衛とか裁判所とか必要不可欠なものだけやっていれば良いという考え方でした。これを行政国家に対置して「夜警国家」と呼ぶことがあります。要は、国は国民の治安だけを守っていればそれで良いという発想です。当然、国の仕事は限定されており、当時のトーリー党とかホイッグ党に所属していた政治家達は、フランスとどうつきあうかとか、国の骨組みをどうするかとか、どちらかといえば基本的な天下国家論を自由闊達に行うだけで済んでいました。
ところが産業革命以来、資本主義が発展してきてから、政治、行政の仕事は一変していきます。十九世紀後半から今日に至るまで社会構造が段々複雑となり、人々の各階層での利害対立が先鋭化するに至り、さまざまなところで、仲裁者・仲介者としての政府の役割が期待されるようになっていったのです。これが「行政国家化の進展」です。例えば、景気変動という本来、市場原理に任せればうまくいくと考えられていた分野にまで、不況回避のための財政出動や税制政策、金融政策運営といったかたちで、中央政府の役割が期待されるようになっていったのであります。
こうなると、もはや政策に必要な知識や技術は膨大なものとなり、かつ専門化してきます。英国でみられたような、政治家による自由闊達な天下国家論だけでは済まなくなっていきます。むしろ細かい行政専門知識を持つ常備機関が必要であり、これがいわゆる官僚制度と呼ばれるものの本質であります。現代社会は、その経済社会構造の複雑化に対応するため、行政国家=官僚国家への道を不可避的に進んできたのであります。
富国強兵の明治時代、そして敗戦後の経済復興、高度経済成長期など、大河ドラマや「小説吉田学校」に出てくるような有力政治家の下で、欧米諸国に追いつけ追い越せの気概に後押しされ、日本の官僚機構は実によく機能してきました。目的がはっきりとしている中では、こうした合理主義に基づいた官僚軍団は、実に大きな力を発揮します。特に、有り余る税収をテコに、財政金融政策の要を握る大蔵省は大変大きな権力を握りました。
しかし、低成長社会を迎えるにあたり、硬直的な発想しかできない行政主導の国づくりには限界が来ていることも事実です。物質的には一定の豊かさを手にしたわれわれにとって、新しい目標が必要となった現在、それは官僚が見つけられるものではなく、政治家がビジョンとして提示しなければならないものであると、わたくしは思います。
わたくしは、官僚制度の欠点は三つあると思います。まず、第一は無責任体制になってしまうということであります。皆さんは、薬害エイズ事件の時や金融危機の時など、マイクを突きつけられた当時の局長などが「わたくしは存じません」とか、「当時のわたくしには責任はなかった」などとコメントして、逃げるようにその場を去っていくのをテレビ等でご覧になることが多かったと思います。
高級官僚は一年半から二年程度で部署を移っていきますから、ある判断を事務方で行った時、誰が責任者であったのかを特定することがなかなか難しい。みんな、ああだこうだと言い訳を付けて責任逃れをしやすい。守秘義務を盾に都合の悪いことは隠せてしまうという点も、こうしたことを助長します。彼らはそもそも公務員試験で選ばれていますから、国民に対して、説明責任があるという発想を持ちにくい。この手の官僚は大勢おります。だからこそ、情報公開制度が必要なのです。
第二は部局割拠主義という点であります。行政においては明確すぎるくらい担当が分かれておりますが、これが時として「あだ」になることも大きいのです。「自分の担当じゃないからわからない」とか、「それはこちらの領分だから、郵政省が口出しすべきことでない」といったように、役所の権限争いは大変大きかった。本当に国民に必要な総合的視点というものはなかなか生まれてきにくいという副作用も顕著です。
第三はコスト体質の欠如であります。行政は、お金もうけという発想がなじまない公共業務という宿命がありますから、どうしても事業の効率性が度外視されることが多い。しかし、財政赤字残高が六六六兆円もある中、国民の血税はやはりできるだけ無駄なくきちんと使う必要がある。今後、民間に移行できる公共業務はできるだけ民間へ移行し、公共がやらざるを得ないものについても、民間の効率的な経営手法を取り入れていく必要があるということについては、前の部のところで申し上げました。
低成長経済が本格化する中で、以上のような官僚制度の弊害が本当に顕著になりました。これらを改善し、国をリードしていくべきなのは国民の支持に支えられた政治家です。しかし、わたくしが言いたいことは、政治家がすべて官僚に変わって細かいことまでやるということをすぐには意味しません。確かに副大臣や大臣政務官として内閣を構成する場合、これまでより細かい政策知識をもって行政をリードすることは求められますが、それだけでは物理的に政策を遂行することは不可能です。肝心なの官僚を動かすことであります。
この点、田中角栄元首相は実に見事だったと聞きます。田中氏は蔵相当時、山一證券への日銀特融の時なども動物的直感をもって決断し、大蔵省や日銀、興銀等の幹部を自由自在に操り、経済危機を乗り越えました。また、通産大臣の時は、時の通産事務次官が田中角栄を心酔し、大臣室と事務次官室のドアは、いつも開かれて自由に往来していたという逸話もあります。田中元首相は官僚にないリーダーシップと決断力をもち、「俺について来い」とでもいうような力強いオーラがあったと聞いています。とやかく言われる問題はあるにせよ、彼のこうした一面は政治主導の政策形成を考えるうえで参考になるのではないでしょうか。
2 ニッポンの官僚とは果たしてどんな存在なのか?
さて、官僚は国会議員にとってどんな存在なのでしょうか。わたくしなどからすれば、確かにうまく使えば、細かいことでは、実に頼りになる存在ではあります。各統計や制度の確認等において、現場にいる彼らの意見や資料なくしては法案審議も困難です。
しかし、時として、彼らは彼らなりの思惑で、政治家を説得しようという場面もあります。わたくしも、国会議員になりたての頃、官僚がレクチャーにやってきて、その言いくるめ技術のうまさに感服させられたという経験があります。うかうかしていると、立法府がそろいもそろって、官僚の追認機関に成り下がってしまいます。行政国家化の進展の中で、こんな危険性は十分あるといえるでしょう。
そこで必要になるのが、やはり政治家の政策立案能力の向上であります。各分野での議論をみていてもまだこの点、十分であるとは申せません。この部の冒頭の章でも申し上げましたが、政治家には政治主導のための徹底的な勉強が求められております。
ところで、皆さんは、官僚と一言でいってもどういう人たちかご存知でしょうか。外務省とか国土交通省とか、そうした役所は今年から一府十二省庁に再編されましたが、役所の基本的なピラミッド構造は全く変わっておりません。
役所で一番えらいのは大臣ですが、これまでの実態としては、国家公務員T種試験を受けて出世してきた官僚のトップである「事務次官」と呼ばれるポストが実権を握ってきました。この下に、取りまとめ役の官房長や担当部局の局長がおり、その下に役所によって「中二階ポスト」と呼ばれる審議官がいて、以下担当課長、課長補佐、係長、事務官と、こうした順番で続いています。
役所で一番激しく働いているのは、課長補佐と呼ばれる三十歳から四十歳くらいの中堅幹部です。実際、わたくしが若輩議員ということもありますが、課長補佐級は年がら年中説明に来ます。彼らは午前様はざらだそうで激務であることは間違いないでしょう。
霞ヶ関はキャリアと呼ばれる国家T種試験を通った官僚達が動かしているわけですが、実際の各部局はU種、V種といった専門職試験を通った事務官が支えているといわれます。キャリア官僚は、先ほど言いましたように、ころころ変わってしまうので、専門性が身につかないのです。そして、わたくしはこれが非常に問題だと思っています。
例えば、財務省、前の大蔵省ですが、あるキャリア幹部の履歴をみますと、大臣官房秘書課入省、税務署長、銀行局、証券局、主計局、理財局と一年半や二年で次々と異動していくのです。特定業界と癒着しないように、という配慮があるにせよ、これでは専門性がない、心もとない行政官を大量生産しているようなものです。官僚に帝王学を学ばせる必要はありません。インチキ帝王学で勘違いする東大ゼネラリスト官僚は必要ありません。もっと専門家に育てていくことが肝心です。最低でも四年から五年は同じ部署に置くべきです。そしてその専門分野で十分な力を発揮し、業績を上げたら昇進していくシステムとし、今のキャリア官僚を頂点とした公務員人事制度を抜本的に改革することが求められています。
良い例があります。外国為替も重要な政策ですが、本当に外国為替を理解しようと思ったら、やはりディーラーとして「きったはった」をやらないと、場合によっては、マーケットで大損するくらいでないと、なかなか理解できないというのです。これは、政策当局者には、専門的な現場経験が不可欠であるということをあらわす示唆的な話です。この点、霞ヶ関で純粋培養されただけの官僚群には、どうも不安を感じます。例えば、優秀な人材が官と民をいったり来たりできるような環境整備も必要だろうと考えています。
3 副大臣、大臣政務官制の導入と官僚の牙城「事務次官会議」の存続について
今回の省庁再編の根幹ともなる政治主導のための新しい制度が副大臣、大臣政務官制度の導入であることはいうまでもありません。「副大臣」、「大臣政務官」とは役所を指揮監督するいわば大臣の補佐役であります。以前は大臣の下の議員の役職といえば、「政務次官」といって、大体当選二〜三回クラスの議員が勤めるのが通例でしたが、大臣と政務次官の間で交流すらなく、多くの局長に囲まれてしまって、大臣や政務次官が新しいことをやりたいといっても、身動きがとれないようなかたちになっていたのが実態です。結局は官僚の言いなりになり、官僚の作文を読むだけという政治家も多く、国民の声が政策に反映されていないという批判が大きかったわけです。政務次官は権限や位置付けが明確ではないため「盲腸(あってもなくても同じものという意味)」などと揶揄され、実際の政策は官僚のトップである事務次官が動かしているというのが実情でした。
そこで、今回政務次官を廃止し、はるかに格上のポストとして副大臣を新たに設け、大臣に次ぐナンバーツーが事務次官ではなく副大臣であることを法律上明確にしたのです。当然大臣の代わりに答弁もしますし、大臣の次の決裁権者としての省庁の中で大きな力を振るうことになります。大臣、副大臣は、意志決定の「ライン」として政策のガイドラインを決定していくことになるのです。
これに対して大臣政務官は、大臣の「スタッフ」という機能・役割を果たします。それぞれの役所の中の特別プロジェクトなどを個別に担当し、局長会議に出たりと、具体的な政策の企画・立案の現場に関わり、大臣を補佐します。与野党対策や委員会での答弁も行います。ですから大臣・副大臣の下とはいっても、国会では、ほとんど彼らと同等の扱いを受け、かつての政務次官より一段と強力なポストです。また、大臣政務官にはなるべく当選回数の若い国会議員をあて、早いうちから役所の雰囲気の中で政策を勉強させるという人事上の狙いもあります。
マスメディアは、こうした改革が、結局はかつての政務次官と一緒で実際には官僚まかせになる「盲腸」に終ってしまうのではないかとさかんに論評しています。
何事も始める前から決め付けてかかるこうした報道姿勢は大いに問題だとは思いますが、確かに今回の制度導入に際して、官僚サイドでも非常に敏感になっていると言いますか、いろいろな面で官僚幹部の意志決定の仕組みを存続させよう、政界側の影響力を極力制限しようという動きがみられることは事実です。その象徴ともいえるのが、「事務次官会議」存続を巡っての官僚側の動きでした。
行政のトップは先ほども申し上げたとおり事務次官です。国家公務員T種試験を受けて官庁に入ると、同期で一斉に競争が始まり、最後はこの事務次官を目指すことになります。これまでは事実上、大臣→事務次官のラインで政策の意志決定が行われており、「政務次官は蚊帳の外」というのが実態でありました。また、大臣もころころ変わりますから、結局各省庁の事務次官が事実上大臣だというように指摘する人もいました。
例えば内閣の基本方針は閣議で決めるわけですが、その閣議では各省庁の事務次官が集まって開催する事務次官会議の場において、全会一致で決定されたことしか審議されません。したがって、官僚サイドとすれば自分達の省益が守られないような議案の成立を阻止できるのです。正に「省益あって国益なし」になりかねません。これでは国民から「官僚主導」と言われても仕方がないことです。
今回の改革に当たっては、副大臣、大臣政務官と、事務次官の上にきちんとした意志決定ラインができるわけですから、閣議の前には副大臣会議を開催すれば良く、「官僚主導の象徴である事務次官会議は廃止すれば良いのではないか?」という指摘も、大変説得力を持つものです。こうした動きを受けて、行政サイドは早速事務次官会議の存続のため、いろいろと根回し等を行うなど、意志決定機会の確保に躍起になったようです。権力を奪われる官僚の側からすれば当然のことでありましょう。
わたくしは、先ほど来、申し述べてきておりますとおり「政治主導」ということと、政治家が官僚に代わって「何でもやってしまう」ということとは、しっかり分けて考えなければならないと思っています。政治家はあまりに専門的な各分野について行政と知識を張り合っても仕方がありません。わたくしたちが官庁に何十年も席を置けない以上、要は彼らの能力を引き出し、活用することが議院内閣制における政治家の使命なのです。
ですから、確かに今までのような事務次官会議の仕組みは問題ですが、専門技術的な面での確認をするという意味から、事務次官会議そのものは存続させても良いと思います。つまりは位置付けが肝じんであり、今後政治家が専門性を高めていく中で、その役割を参考・参与会議程度の意味に止め、重要な政策決定は、やはり大臣=副大臣のラインで決めていくことが望ましく、そうした具体的なシステムを模索していくことが重要だと思います。何しろ新しい制度ですから運用の中でより良い道を探すことが大切でしょう。
4 中央省庁の再編・統合で日本の政策形成システムは変わるのか?
今回の改革で、役所は今までの一府二十二省庁から一府十二省庁へと大幅に減りました。しかし、国民の皆様からは、「いくら役所の数を減らしても、今までの役所を足し合わせただけで、役人の数も仕事量も減らないとすれば、一体何の意味があるのか?」という厳しい指摘があることも事実です。
例に挙げられるのが国土交通省です。同省は、建設省、運輸省、国土庁、北海道開発庁がインフラ整備関係ということで一緒になった役所ですが、総額十兆円にも達する公共事業関連予算を一手に握るため、「統制のとれないマンモス官庁」と早くも批判を浴びています。部局をみても確かに建設省時代の道路局と運輸省時代の自動車交通局が並列に並ぶなど、一見して単に一つ屋根の下に押し込んだだけのようにもみえるかもしれません。
しかし、例えば今までは道路は建設省、新幹線・空港は運輸省とインフラ整備も完全な縦割りであり、道路や鉄道がわが国の交通システムという全体の枠組みの中でとらえられることが少なかったのが実態で、それぞれにさまざまな利害関係や省益等が結び付いていますから、協力して何かをやろうとしても役所間の調整が困難でした。このため、多くの財政的無駄が発生していたのも事実です。諸外国でも概ね同様の現象が認められるなど、これは行政の所管分野を分けすぎると発生する、現代行政に付きまとう一種の病気のようなものです。
したがって、建設省や運輸省等が、インフラという一つの括りでの意志決定の統一を図れるようになる今回の省庁統合は、この点だけをとってみても、画期的な意味をもっているとわたくしは思います。その他の例を挙げれば、家庭生活のさまざまな問題も、厚生省と労働省が一緒になることで、必ずや良い知恵が生まれてくるものと思います。
何度も繰り返し申し上げて恐縮ですが、国民の皆様に是非ご理解をいただきたいのは、今回の省庁再編は、終わりではなく始まりなのだということです。わたくしは、官庁の中には、民間に任せた方がより効率的に資源配分できる公共業務がまだまだたくさんあると思います。今後、積極的な民間移行等によって、省庁の部局課数や国家公務員の数は必要に応じて徹底的に見直しがなされ、大幅に減っていくことが確実な情勢です。
まず、屋根の部分を分けたら、次はそれぞれが屋根に合わせて徹底的スリム化を図ること、わかりやすく言えばそういうことになるのではないでしょうか。国民の皆様にはこの点厳しく監視していただきたいと思います。
5 政治主導を実現するための内閣府設立の意義と経済財政諮問会議
さて、各役所間の権限争いが、現代官僚制の問題点のひとつであることは、先ほど申し上げたとおりですが、これをなくすため、上記の政策分野別の省庁統合とともに、その役割を期待されているのが今回新設された「内閣府」です。
内閣府は省庁にまたがる政策分野について調整する役割を期待されており、他省庁に対して優位な存在であるという点が制度的に明確化されております。今までは大蔵省(現財務省)が官庁の中の官庁という存在であり、大蔵省は他省庁に対して予算配分を通じた絶大な権限をもっていました。各役所も大蔵省の悪口を言いながらも最終的には大蔵省にならえというところがあったのは事実です。
しかし、彼らの権限のよりどころである「財源」はいうまでもなく国民の血税であり、彼らが別に偉い特別な存在なわけでは決してありません。大蔵省優位の傾向はやがて大きな問題となり、最終的には、さまざまな不祥事へと結び付きました。
真に他省庁に対してリーダーシップを発揮すべきは大蔵省ではなく、内閣総理大臣であるべきです。そうした議院内閣制からすれば当たり前のことを実行するため、このたび新設された内閣府に、わたくし自身大きな期待を抱いております。
そして、内閣府の目玉は何といっても「経済財政諮問会議」であります。旧経済企画庁を母体にして、国の経済・財政政策について、関係閣僚や学識経験者を交じえて議論し、今まで大蔵省の主導で行っていた予算編成の大枠策定を、この会議において政治主導でやりましょうという、そういう機関になります。
事務局の幹部も、民間学識経験者から幅広く採用しており、その数は内閣府全体で百三十人にも達します。現在のような景気状況を打開するためにも、マクロ経済全体を、人知を結集して検討、責任をもって経済政策全体を組み立てていくという、この経済財政諮問会議の設立は正に画期的なことだと思います。今後民間人スタッフの数はもっともっと増員していくべきでしょう。その際、単なる調査スタッフとしてでなく、参事官等ラインの幹部として登用することが重要です。
また、内閣官房においても、最近では政策調整の柱となる官房副長官の位置付けが大きな重みをもってきているほか、これまで各省庁局長級の出向人事であった、内政審議室長や外政審議室長等も「官房副長官補」に格上げされ、内閣補佐官も人数が3人から5人に増えることになりました。
これらはすべて、内閣総理大臣の政治的リーダーシップを強めるための改革であります。これらの制度改正を活用できるかどうかが、今問われているのであります。若手政治家や優秀な学者、民間の専門家等が、内閣官房や内閣府を城として矢継ぎ早に政策を打ち出して、この国をリードしていくというのがわたくしの描く理想的な姿です。
6 日本には、今どんな内閣総理大臣が必要なのか?
以上、この章ではニッポンの現代行政官僚論についていろいろ述べてきました。いくらかはイメージをつかんでいただいたかと思います。そこで、このような官僚の実態と足もとの改革の現状等を踏まえて、それではどんな内閣総理大臣が今、求められているのかという点を明確にして、この章を終えたいと思います。誤解のないように言っておきますが、わたくしがこれから論ずるのは、望ましい内閣総理大臣像であり、具体的な人物をどうこうという話ではありません。
まず、第一に指摘したい点は、「自分の言葉でビジョンを語れる一種のカリスマ」である必要があるということでしょう。日本では、根回し中心のボトムアップ重視のリーダーシップが尊重され、「まあまあ、そう言わないで・・・」と人をなだめられるような人物が首相に向くという言われ方もされておりますが、時代の勢いは大変急なものであり、今後もこうした人物が首相に向くとは思われません。こういう人物はむしろ党の幹事長等として周辺で支えれば良い。やはり総理向きと幹事長向きのキャラクターは違うと思っています。
米国をはじめとする先進諸国では、言葉を巧みに操る力強いリーダーが次々と出現しております。やはり自分の明確な政治理念の下、ぐいぐいと国民を引っ張っていけるくらいの力強いリーダーシップが必要な時代であります。この際、演説がうまく、テレビ映りもよく、国民への説得力をもっておればなお良いと思います。
第二に、「行政人事・組織構造に明るいこと」。田中角栄さんや竹下登さんは省庁幹部の入省年次から家族構成、趣味まで、すべて知っていたなどという話があります。元副総理の後藤田正晴さんはすべての政策案件を聞いただけで、それが、どの省庁のどの局のどの課のどの係の所管であるかということを即答できたそうで、彼に説明する官僚は次官、局長クラスでも震え上がっていたと言います。こうした政治家は、それだけ政策を実現する場合の官僚操縦というものを真剣に考えていた。だからこそ、あれだけの政治力を発揮できたという点は間違いないでしょう。
政策を実現するという場合、すべて議員立法で、などというのはナンセンスです。法律は現場で執行されるものであり、その場限りの議員の自己満足で終わらされるものではありません。やはり行政をしっかりと理解し、専門性の中にぐいぐい食い込んでいくことが肝心です。この点、行政人事や行政組織構造についての理解は不可欠です。なぜなら、官僚は例外なく人事や組織を第一として動く人々だからです。
第三には、「危機管理について卓越した能力を持っていること」です。先のわが国の水産高校実習船と米国海軍原子力潜水艦の衝突事故の一報を受けてから、森総理が、しばらくゴルフを続けていたという点で、国民から大変厳しい非難を浴びました。確かに問題がなかったとは言えません。問われているのはその姿勢なのですから。やはり総理たるものいつ何時何があるかわからないわけですから、リフレッシュは結構ですが、ひとたび、危機が生じたら、ただちに官邸で指揮がとれる体制になっていなくてはなりません。それが総理になったものの宿命だと思うのです。
一国の危機管理が必要な緊急時には、本当の人間の力量が出ます。当事者達の精神状態が極端に緊張・緊迫した中で、また、多くの国民の生命がかかっているような異常事態の中で、冷静かつ的確な判断をすることは本当に至難のわざです。まず、総合的な情報収集力、そして、玉石混合の中から正しい情報を選び出す解析力、そして、結果を考えて事態解決のための最良・最善の手法を決定する決断力、事態について最後までしっかりと責任を負う使命感、そうしたものは一言でいえば、政治的才能の究極的なかたちとさえいえます。そして、これこそが総理大臣には不可欠な能力なのです。こうしたことのバックアップのため、わたくしは「国家情報庁」の設置を提唱しています。
最後にわたくしが総理大臣に必要な資質として指摘しておきたいのが、「情熱」であります。かの中曽根大総理は、総理になるずっと前から、「自分が内閣総理大臣になったら実現すること」として、何冊もの大学ノートに改革私案をまとめていたと言います。
内閣総理大臣になる人は、それだけの情熱というものが必要です。日本では、どちらかというとまわりから推されてなるのが美徳というところもありますが、推され推されで能力もないのに、無理やりなっても悲劇を招くだけです。総理大臣になりたいという情熱は、何にも変えがたいと思いますし、それこそが最低限度の資格要件だと思います。そして、わたくしも理想の内閣総理大臣を目指して、情熱を持ってがんばって研鑚を積んでいきたいと思います。うそではありません。本気ですよ。
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